【信州ダービー特別企画】大月 弘士×八木 誠 対談(前編)

このクラブの歴史は、サポーターとともに歩んだ歴史でもある。ライバルからの刺激を受けながら、人が人を呼んでたどり着いた現在。黎明期を知る2人が山雅の原点を振り返りつつ、現代の信州ダービーが持つ意義を問い直す。

半信半疑のスタート
資金繰りと環境整備に奔走

――まずは山雅に関わるようになった時期ときっかけを教えてください。

大月

2003年に私が当時所属していた松本青年会議所(JC)に対して、NPO法人 長野県にプロサッカーチームを創る会から「Jリーグに向かうチームを作りたいので協力してほしい」という要請がありました。ただJCは単年度制の組織で、話をもらった時期には来年度の組織が決まってしまっていたんですね。だからJCとしてどうこうはできなかったですが、アルウィンを生かした街づくりは必要だと思っていたので、「個人的には応援しますよ」と軽いノリで応えたんです。とはいえ私もサッカーのことをあまりわかっていなかったので、八木さんにも声をかけました。

八木

月に1回くらい、カレーを食べながらミーティングしていましたね(笑)。どのクラブと関わっていくかはまだ決まっておらず、当初は同じ松本平だし近いし…ということでアンテロープ塩尻の名前も挙がっていましたが、「長野エルザが1部にいるのにこっちは2部じゃないか」という話も出たりして。結果的に山雅クラブは自分の先輩が監督と代表をやっていて繋がりがあって声をかけました。それで「山雅にする」と決めた後に(高橋)耕司さん、(小林)克也さん、勝沢(勝/現松本国際高監督)さんなどに輪に入ってもらったんです。

そこで2004年に「ラズーソ松本」という組織を作りました。ご存知のとおり、「そうずら」を逆さまから読んだ造語ですよね。でも松本市の体育課に出向いて課長さんに「こういうことをやりたいんです」と話をする前に、大月さんが「どうやって説明すればいい?」って聞くから、「ポルトガル語で『羽ばたく』という意味です!って言えばいいよ」って冗談で言ったら本当にそれ言っちゃうし(笑)。「ラズーソJプロジェクト」っていうプレゼン資料はいまだに私のPCに入っていますよ。

その後のNPO法人アルウィンスポーツプロジェクトは私が理事長を務めることになりました。組織づくりのノウハウはあまりなかったですが、JCでたまたまNPO法人の担当をして勉強していたので、いろいろと調査しました。今のいわてグルージャ盛岡に行って勉強したこともそのまま生かして、監督をプレーイングマネージャーとして招聘したり、選手をレンタルで獲得したりしようとしました…。なかなかうまくはいかなかったですけどね。そうした動きの中で、辛島(啓珠)監督に来てもらうことになりました。

――当時は「スポーツチームを支援する」という選択肢や文化そのものが松本に存在していなかったと思います。その中での資金集めは相当に大変だったのではないでしょうか?

大月

その当時は資金面が本当に厳しかったですよね…。「ヤバい」ってなってテレビ松本の佐藤(浩市)社長(現会長)にお願いに行ったら、「わかった」と言って知り合いの社長を3人紹介してもらったんですよ。ESCOと井上と――

八木

あと1社は「絶対に公表しないでほしい」という話だったから、今も伏せておきしょう。その3人からその場で100万円の札束をドンといただいて…ということもありました。あとはサンリンさんが背中(スポンサー)についてくれたのも大きかったです。当時の社長は私の遠縁の親戚で、話を持っていったら「助けてやれや」と部下に指示してくださって、300万円で背中についてもらいました。

そこからサンヨーエプソンイメージングデバイス(当時)の有賀(修二)社長が2005年の夏からユニフォームスポンサーについてくれて、その後で信毎(信濃毎日新聞社)さんも。でもその前は本当にJCの知り合いから10万円ずつ支援してもらったり…そんな感じで苦しかったですね。

大月

あれ、初年度の決算は1000万円くらいだったのかな?

八木

いや、1000万円にも届いていない。それで2005年以降も、資金が足りなくなると有賀社長のところに行って「もう少しなんとかなりませんか…」とお願いするような状況でした。そこで「お金は集めるから、チームを強くしてくれや」という形で関連各社などにも声をかけてもらったりもしていましたね。

なにしろお金を扱うのはやっぱり怖いこと。そもそも自分たちは会社を経営している立場だから、お金の重さや大変さはよくわかっていました。

大月

そればっかりだったですよね…。

八木

そう。資金面と、あとは練習場の確保に苦しんだのを覚えています。

大月

そうでした。どこかの公園で練習していたら怒られたこともありましたね…。

八木

昼のほうがグラウンドは空いているので、2007年には練習を夜から昼に変えたんですよ。

大月

あとは夜に練習していると、照明も暗いグラウンドばっかりだったから「いかんせんボールが見えない」って辛島さんに言われたりも。

八木

だから、市の体育課に行って「運動靴でやるから貸してください」って許可をもらったんだけど、視察に来たときにスパイクを履いていて「もう絶対に貸さない」と怒られてしまったんですよ…。

――練習を昼に変える時も、当時の選手たちの勤務先の同意を取り付けたりと、地ならしが大変だったのではないでしょうか?

大月

ほとんどが理事のところで働いていたから、そこはなんとか。うちにも2人いたし。

八木

うちにも1人いた。

大月

でも本当に、選手としても昼に練習をしてから働くのは大変だったと思います。

八木

あとはスタメンを外れると会社の中でもどんより暗くなってしまう選手もいたりして…(笑)。でも仕事はしてもらわないとなんだけど。

苦労といえばそういう環境の整備は大変だったけど、とにかくお金。遠征へ行くにしても大月さんと飯塚(肇/当時事務局長)さんと私で車を出して選手を乗せて、宿泊費と夕食代の1000円だけは負担していました。

大月

辛島監督が選手に1人ずつ1000円を渡していましたよ。でもあの時は酒飲んでる選手もいたよね。当時の強化担当がものすごい剣幕で怒っていましたよね。「ありえない!」って。

忍び寄る県都クラブの影
「ユナイテッド未遂」も

大月

あれ、じゃあアスレながのの方と話したのはいつになるんだろう?

八木

2005年かな、あれは衝撃でした。まず2004年にNPO法人アルウィンスポーツプロジェクトを立ち上げて、松本市役所で記者会見を開いたんですよ。それから長野エルザが一気に動き出して、翌年の3月に後援組織の「アスレながの」が設立されました。

その会見をやる前日くらいに「事前に八木さんにはお話ししておきます」って松本のホテルで話をしたんです。それで資料を見せてもらったら…愕然でしたね、あれは。構成メンバーが前市長、現市長…。

大月

長野市方面で何かやる時は、だいたい行政と商工会議所とJCがセットになって動くから。

そこからさらにさかのぼってNPO法人ができるより前のタイミングで、「一緒にやりませんか」という電話が長野からかかってきたこともありましたよ。本当にそれぞれが単独でできるのか?という話になって相談して「一緒にやった方がいいよね」と。

それで私たち2人で長野に出向いて、先方の方とホテルで会談したんです。単独でお金を集めるのは本当に難しかったし、長野もそれは同じだと。「じゃあ一緒になって長野県で一つのチームでやろう」と話がまとまったんです。

でも結構スムーズに決まって、帰ってチームに話したら…総スカンを食らいました。「そんなのはダメだ!」と。それで先方に申し訳ない気持ちで断りの電話を入れたら、向こうでも同じことが起こっていたわけです(笑)。やっぱり松本と長野は戦わなければいけない――というのは、当時から根強かったんですね。

八木

そんなこともありました。それ以降、合併の話が私たちのところに回ってきたことは一切ありません。当時の私たちには松本と長野の関係に対する認識がなかった部分もありますし、そもそも長野県にプロチームが2つも存在し得るなんて全く予想もつかなかったです。当時は赤字のJクラブも多くあったと思いますし。

大月

「できっこない」って思っていましたよ。自分たちは「アルウィンを活用する」というのが目的だったので。そもそもプロサッカーチームを作ると言っても、半信半疑なところは正直ありましたよね。「今からは無理でしょ」みたいな。

八木

「行けるところまで行こう」というような感じ。確信を持っていた人間は絶対いなかったと思います。

強烈に後押しした
ボトムアップのエネルギー

大月

松本に住んでいる方々は、長野への憧れがずっとあったと思います。特に私が衝撃を受けたのが、1998年の長野オリンピック。あれは長野県でのオリンピックだったけど、ほとんど長野市での開催でした。日本の選手が数多くメダルを獲って、また演出がよかった。競技会場とかではなくて、街中のセントラルスクゥエアで表彰式をやるわけです。私たちもJCの関係で手伝いに行ったけど、その光景がとにかくすごいと思いました。「長野すごいな」と。

ただ、NPO法人アルウィンスポーツプロジェクトを立ち上げて「もしかしたら松本にもJクラブを作れるんじゃないか」とふと思った時は、「あのオリンピックがあった長野の光景は一生に一度しか作れないかもしれないけど、2週間に1回ホームゲームを開けるのであれば、それ以上の演出ができるのではないか」と考えました。

八木

あとやっぱりアスレながのの勢いは凄まじかったし、いまだに体の力が抜けるくらいの衝撃を受けたのを覚えています。うちはJリーグに上がるって言っちゃったから後には引けないし、でもこんなチームが立ち上がってしまう。怖かったし、恐ろしくて寝られませんでしたよ。

でも良かったのは、ああいうプロジェクトをドーンと叩きつけられて、這い上がるための素地ができたというか。「もう命懸けでやるしかない」と。もともと松本の人たちは地域を思う力が強いしボトムアップの力があるので、それも大きかったと思います。「やらされる」のではなく、率先してやる。だから今でも、大月さんと私はホームゲームの総合案内所にいます。サポーターの皆さんと一緒に苦楽をともにして、嫌な時も怒られたりしても、上の人間は率先してそういう場に出るべきだと。

そうやってサポーターの方々の懸命な姿を見て力をもらいましたし、それを我々がもっと輝かせたいと感じて、その繰り返しで人が増えていきました。

大月

そうですね。逆に長野は組織がしっかりしていたけど、サポーターを増やすのにはなかなか苦労していました。うちは組織としては貧弱で脆弱なクラブだったから、Jリーグの審査のときにも「こんな体制でできるのか」と心配されていました。

八木

「資本金は6人で合わせて600万円です」みたいな話ですからね。「なんですかこれは!?」っていう(笑)。

大月

「本当にJリーグを目指しているんですか!?」って聞かれましたもんね。でもJリーグに上がって活躍できるようになってからは、その方々も徐々に「すごいチームになった」「地方クラブの見本ができた」と驚くようになりました。

八木

我々にとってはサポーターと市民の皆さんが全てです。当時も資本金を作るときに行政やスポンサーの方々にお願いをしに回っていましたが、一番驚いたのは持株会。自分が中心になって進めたからよく覚えているんです。札幌とか他クラブの先行事例を学んで「危険さを孕んではいるけど、(トップに)適格者を据えておけば大丈夫だ」と踏んで、信頼している有賀修二さんに「本当に申し訳ないけど(上限の)19口を持って統制を取ってほしい」とお願いしました。

そうしていざ枠を決めて募集をかけたんです。そうしたら、FAXがバンバン来て止まりませんでした。「私たちは歳をとっているから40万円出します」とか。本当は100万円の出資希望もあったんですが、上限が19口までなのでお断りしました。

大月

JFLに上がるまでは本当に紆余曲折がありましたね。理事の中でも「赤字になっても選手補強をしよう」という話が挙がりましたが、我々はそれをしませんでした。当時は強化に資金を投入して彗星のように現れたクラブもあったけど、後になって結局なかなかサポーターも集まらないし資金ショートを起こしたり。逆に私たちはそれによってJFLに上がるのに時間はかかりましたが、その悔しさがバネとなって、成し遂げたときはものすごく感動しました。あの時に「あれ、Jリーグに行けるんじゃないかな?」って思いましたし、それに前後して行政も好意的になってくれた気がします。

八木

観客もどんどん増えていって、2007年の信州ダービーには6,000人が集まって。あのときの雰囲気はものすごかったです。

大月

JFLに上がると、それが10,000人にも膨れ上がって。(北信越リーグ1部昇格を決めた)2005年から(JFL昇格を決めた)2009年までの5年間は、本当に一番大事な時期だったと思います。最初は「3年でJリーグに上がります」って掲げていたけど…(笑)。

八木

まあ、5年でJFLも悪くはないですよね(笑)。

大月

JFLまであと一歩のところで毎回負け続けたあの時期は我々にとって一番苦しかったですが、サポーターの方々も相当苦しかったと思います。逆にJFLに上がってからは2年でJ2に上がれましたし、クラブとしては軌道に乗っていましたね。
(後編へ続く…)