【編集長コラム】拝啓 反町康治さま ※無料配信
物事には必ず終わりがあるものです。
もちろん頭では理解していますが、思いがけず長かった初恋が終わったような気持ちです。最初の頃は「3年で1サイクル」などと口にしていたので毎年のシーズン終盤には覚悟を固めていたものですが、いつからか松本の街にすっかりなじんでいました。かりがねの芝生に腰を下ろしてサッカーの話をするのは、自分にとってかけがえのない日常であったように思います。
初めて声を聞いたのは、忘れもしない2012年1月19日。まだ松本市サッカー場が練習場だった時代のシーズン初練習です。「サッカー選手として練習、食事、寝る――のサイクルをしっかりやるように」「サッカーでメシを食っていくことを意識した24時間のデザインが必要」などと訓示をされましたね。チームとしても「プロフェッショナルへの変革」を掲げたシーズン。新たな第一歩を踏み出す――という期待と高揚感に全身が満たされたのを、今でもありありと覚えています。
最初の頃は、一方的に「教えを仰ぐ」立場でした。山雅がJリーグに参入した2012年、長野県にとって初めてプロサッカーを取り扱う必要性が生じました。そのためには伝える側もプロフェッショナルにならなければいけません。そう感じたからこそ試合の映像をたくさん見て、トレーニングもできる限りつぶさに観察して、気付いたことをぶつけるようにしました。今思えば赤面したくなる的外れな質問に対しても、しっかり答えてくれました。
そんな貴重な時間を、気が遠くなるほど積み重ねました。試合後の記者会見や試合前の動画撮影時に「いい質問ですね」「おっしゃる通りですね」などと言われると、心の中でガッツポーズをつくったものです。サッカーの専門家…しかも相当にマニアック(褒めています)な部類の反町さんに比べれば、私たちメディアの観察力や労力など一笑に付されるレベルかもしれません。それでも、その領域に少しでも近付きたいというスタンスでいたからこそ、この仕事は唯一無二のやりがいを感じられるものになりました。
ご存知ですか。今年のあるホームゲーム後のこと。何度もJ1を制覇している強豪クラブのベテランレポーターが反町さんの会見に臨席して、地元メディアが繰り出す質問の専門性に目を丸くしたのだそうです。それをわざわざ報告してくれるほどの衝撃だったようで、私は「普段からソリさんに鍛えられていますから」と応えました。私たちは、ことサッカーの競技に関わる部分については、反町さんに育てられた――という明確な自覚を持っています。
私たちメディアだけでなく、クラブもサポーターも反町さんに育てられた部分があることは間違いないでしょう。神田社長もこの日の囲み取材で、「クラブ全体としても反町さんに依存して閉塞感があることを感じていた」と明かしました。
閉塞感――。
そう聞くと、思い当たる節はたくさんあります。今季の中盤戦。水面下でクラブ側に辞意を伝えていたという第17節G大阪戦に前後して、明らかに覇気が感じられませんでした。チームのマネジメントにご苦労されていたことは言葉の端々から浮き彫りになっていましたし、今だから申し上げますが「ギブアップ宣言」をしたのだろうな――ということは、薄々気付いておりました。
それでも慰留を受けて再びエネルギーを注ぎ、後半戦にかけて巻き返しました。「よりパワーアップしようとしてやってきた。仕事をしっぱなしだった」と振り返る通り、ピッチ内にも明確な変化がありました。ラインを高く上げることはなかなかできなかったですが、テクニカルな選手たちが繰り出す小気味よい攻撃には高揚感を覚えたものです。このシフトチェンジが象徴するように、ピッチ内外での引き出しはありったけ使い切ったと思います。
だからこそ、目標達成はなりませんでしたが「自分を奮い立たせて死力を尽くしてきた」「やり切った」という言葉が口を突いて出てくるのでしょう。言葉通りに「真っ白」なのは、日々間近で取材をしている身としては痛いほどわかります。そんな状態の人に対して「まだ舞台に立って踊れ」と求めることが、どれほど残酷なことなのかも。クラブもそれをわかっていたからこそ、このような形で幕を引くことになったのでしょう。
「監督なんて追われるようにチームを去るもの」「監督は2種類しかいない。クビになった監督か、これからクビになる監督かだ」。この8年間、折に触れてこんなシニカルなことを仰ってきましたね。ですが、私たちは知っています。松本に対して山雅に対して、少なからず愛着を持っていたことを。照れ屋だから、ストレートにそれを伝えられないことも。そして実際に、追われるように去るわけでもクビでもありません。
JFL4位で傷だらけになりながらJ2に上がったチームを率いて、8年間で2度もJ1の景色を見せてもらいました。命を削るように心血を注いだ仕事ぶりは、間違いなくこの土地にサッカーを根付かせ、スポーツ文化を耕す要素の一つになりました。
しかしここからはその力を借りずとも、自分たちの足で歩いて明るい未来を切り開いていきます。反町さんが費やした途方もない労力をムダにしないためにも、私たちにはその責任があります。
本当に、本当に、ありがとうございました。
敬具
編集長 大枝 令 (フリーライター)
1978年、東京都出身。早大卒後の2005年に長野日報社に入社し、08年からスポーツ専属担当。松本山雅FCの取材を09年から継続的に行ってきたほか、並行して県内アマチュアスポーツも幅広くカバーしてきた。15年6月に退職してフリーランスのスポーツライターに。以降は中信地方に拠点を置き、松本山雅FCを中心に取材活動を続けている。