【イベントレポート】反町康治監督 退任会見(抜粋)※無料配信

――この8年間はJリーグで真っ白なところからチームを作ってきたという印象があります。チームを作ることに対する楽しみがまさったのか、苦しみがまさったのか…今振り返るといかがでしょうか?

最初にそういう話をいただいたときに少なからず周りの人に相談したんですけども、みんなに「止めとけ」と言われたのを思い出します。僕は性格的にそう言われるとやりたくなってしまうので、「面白いチャレンジができるんじゃないか」とまず感じました。そのときにいただいた天皇杯やJFLの試合を見て、「これは相当、大変だな…」と思ったのを思い出します。

それと同時に「よろしくお願いします」と言ったのが12月30か31日くらいでしたので、選手の獲得うんぬんというのはもうほとんど終わっていまして、そのときに限って言うと「GKと外国人のストライカーくらいだったら費用が余っているよ」という話で、そうやったのを今思い出しました。

最初はもう本当に、こっちの方に向かせる難しさを感じた部分は多かったですね。でも自分から望んで行ったわけであって、それに対して不満や不平というのはなかったと思います。それをどうエネルギーに変えていくかと。選手もその前までは色んなところでバイトしていたという話も聞いていたので、サッカーに専念できるということ、プロフェッショナルな考えを植え付けながら徐々に右肩上がりにしていこうと考えてやったのを覚えています。

――8年間の中でこのチームに植え付けられたと思う部分があったら、教えてください。

本来は根性論とかはあまり好きではないんですよね。僕の現役時代を知っている人も少ないと思いますが、華麗なサッカー選手だったので(笑)。ですが、やっぱりそうした精神的な部分をここでは磨いていかないと厳しいなというのを、一番最初に(御殿場の)時之栖で合宿したときに思いました。そこから方向性を変えて鍛え上げていかなければJ2の舞台では、もしくはJ1になっても厳しいと思ってやってきました。

僕は湘南のときにはトレーニングは全部攻撃の練習をしていて、守備のことはほとんどやった記憶がないです。でもここに来てからは、そうでなければ生き残れないという前提のもとにやってきたつもりではいます。それによる弊害もたくさんあったのかもしれませんし、選手のよさが消えた部分もあったかもしれませんけれども、それはこの舞台で何とか生き残るためで、自分の中での葛藤は少なからずありました。

今年も優勝した(横浜F・)マリノスさんよりも走力だとかスプリントだとかでは勝っていましたし、そういうイメージがある湘南にもそこでは勝てました。それはこのチームの売りの一つになったと思います。ただ、それだけでは限界があるのかもしれません。そこから上積みするようなものを作り上げていかなければいけません。最後の笛が鳴るまで諦めない姿勢であるとか、そういう根性論はどこでも言っているかもしれませんが、我々はトレーニングからそういう話をしてやってきた自負があります。それがゲームの中でも、この8年間で生かされた部分もあるかなと思っています。

――スモールからミドルのクラブになって、ビッグになるのはこれからです。これから山雅がJ1で戦えるクラブになるために必要なものは何でしょうか?

僕も日本リーグ(旧JSL)でやっていた人間なので、大きな企業がバックアップしてくれているチームは資金力も当然備わっていますし、高額な選手を連れてくる力があると思います。

じゃあそうでないチームがどうやって生き延びていくかというと、やっぱり自分たちで作り上げて資金力を上げてみんなに認知されるようなチームになって、できればアカデミーからたくさん選手が上がってきて、お父さんお母さんも一緒になって応援できるようなクラブになって初めてミドルからビッグになるのではないかと思っています。ホームグロウンの問題を言われると社長も頭が痛いかもしれませんが、やはりそこには力を注いでいかないとミドル(クラブ)で頭打ちになってしまうのではないかと。もちろん資金力の問題はあるにしても、やはり成績を残すことによっていろんなマネーが入ってくるであろうと。チームの強化と育成を通した中でそれが合体したときには、よりいろんな人のクラブ愛も育つと思いますし、チームもミドルの域から抜けるのではないかと思います。

――今年のシーズン途中に1回、辞意をクラブに伝えられました。辞めるというのは大きな決断だと思いますが、それに至った具体的な試合や事象があったのでしょうか?

結果ということに限って言うと半期のときがあったんですが、そのときに一番感じたのは、「選手がいきいきとやっているかどうか」ということだったんですよね。ちょっといろいろなことを縛りすぎたり、自分の持っているよさをゲームに送り出した11人プラス途中で入った選手が表現できているかどうかとか。ちょっとそういうのを縛りすぎたかなと僕は思ったんですよね。それで成績が伴っていればどこのチームもいろんな規律があるのでよかったのかもしれませんが、それで成績が伴わないと選手を見ていて辛さがありました。そういうのが少し引っかかっていました。

――その後にも再びファイティングポーズを取って続けられた要因は何でしょうか?

体重も本当に減ってきて、食べ物も喉を通らなくなって「このままでは自分がやられてしまうんではないかな」という極限の状態にまでなっていた中で、パフォーマンスと目指しているものがなかなか出せないときにそういう話をさせてもらいました。「何とかやってほしい」と言われて、お互いに譲れない部分はあったんですけども「歯を食いしばってやるしかない」という覚悟を決めて7月に入ったのを今でも覚えています。それだけ信頼されているのであればそれに応えなければいけないという使命感もより強くなりましたし、本当に歯を食いしばって…外から見たら「どこが?」と思われるかもしれませんけれども、やってきたつもりではいます。

――この8年間で松本山雅が中心となり、松本をはじめ長野県のスポーツが盛り上がってきたと認識しています。今後どのようになってほしいと思いますか?

僕はサッカーどころの静岡で育った人間です。長野がそういう「サッカーどころ」と言われるのはいつの日か…と感じるように、最初はサッカーに対する認知度が低かったと思います。最近は少し変わってきてうれしく思っていますが、インターハイや(全国高校)選手権もほとんど1回戦ボーイでした。それはサッカーのみならず、一般的に有名な野球とかアウトドアのスポーツはどちらかというと後進県に当たると。

ただ、インドアの球技やウインタースポーツは非常に、冬季オリンピックをやった影響もあるのかもしれないですが、施設も整って非常にいい選手がいて、我々と同じようにローカルなスポーツニュースで沸いているのを見ると非常にうれしく思っています。それと同時に何回かお会いしましたし今度は国技館に行こうと思っているんですけど、御嶽海関が2回優勝しましたよね。そういうアスリートも長野県から出てきています。

サッカーに携わっている大きなところで言うと(AC長野)パルセイロさんと我々山雅がJリーグですが、この2チームが長野県の中で競争することで、より注目を浴びると思います。僕は在任中、パルセイロさんとリーグ戦で1回も戦ったことがないまま終わってしまいました。お互いに競争しながらやりたいなと思っていましたし、実際にその方が競争力とかライバル心もあって盛り上がると思います。それはこれから期待してやみません。

全体的に僕が来てから夕方のローカルニュースになったときにスポーツのニュースの時間が増えたのはうれしいし、そのファーストニュースで我々が多かったのも非常にうれしかったです。そのまま取り扱っていただいて、普段の生活の中にスポーツ、できれば松本山雅、できればサッカーを取り上げてくれればうれしいですね。

構成/大枝 令