【特別企画】ガンズ・ポートレイト 2011/08/07 JFL後期第6節 SAGAWA SHIGA FC戦

アルウィンを満員に、そのためにJリーグのクラブを――。現在の山雅の源流は、種火のように小さな活動から始まった。そして数多の選手たちが緑色のユニフォームに袖を通し、多くのサポーターとともに物語を紡いできた。試合は歴史の連環の中にあって漏れなく意味を帯びているが、とりわけ鮮烈なインパクトを残したゲームがある。クラブの「語り部」・丸山浩平の視点から、節目のゲームを紐解いていく。

それは夏の、暑い日のことだった。
いつもと同じ、オフ明けのトレーニングになる――はずだった。

2011年、8月2日。

その日の練習会場は、梓川ふるさと公園だった。普段なら松本市サッカー場や信大グラウンドがほとんどだが、夏休みに重なるこの時期はグラウンドの確保が難しい。この日だけはどうしても近隣のグラウンドが取れず、その場所でトレーニングをすることになった。開始時間が近付くにつれて徐々に選手が集まり始め、その中にはあの男もいた。

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松田直樹だ。

3日前のJFL前節・町田戦は出場停止だったが、本人は会場に観戦に来ていた。その足で日産スタジアムを訪れ、古巣・横浜FM戦を観戦してから松本に戻っていたという。翌日のトレーニングマッチ・松商学園戦にも出場。会場の松本大学グラウンドには八木誠副社長が訪れてチームを激励しており、マツさんはその人物像に興味を持ったらしい。練習前の雑談で「八木さんってどういう人なの?」と尋ねられ、山雅の草創期を支えた経緯を説明。何気ない、日常の一コマだった。

そしてトレーニングが開始。オフ明けの立ち上げだったため、抑えめのペース走からメニューは始まった。自分は少し離れた場所で、加藤善之監督と一緒に練習に使うコーンを置くなどの準備をしていた。それも何気ない、日常の一コマだった。

「やばい、やばい」

にわかに選手が騒ぎ始めたのが、日常の終わりと悲しみの始まりだった。

何事だろうかと思って駆け寄ると、マツさんが倒れていた。ついさっきまで雑談を交わしていたマツさんが。慌ててAEDを探したが、その場所にはなかった。須藤右介が他の選手と一緒に、練習見学に来ていたサポーターに対して「看護師の方はいらっしゃいませんか」と呼びかける。偶然にも居合わせた看護師の指示を仰ぎ、柴田峡コーチらが心臓マッサージをする。自分が119番通報をして、マツさんは信大附属病院に救急搬送された。

瞬く間に情報は広がった。地元メディアだけでなく、在京メディアからもクラブに問い合わせが殺到した。随時ウェブサイトで状況を発信し、毎日のように大月弘士社長と加藤監督、担当医らが記者会見を開いて現状を説明。自分も「生きてさえいてくれれば」「なんとか意識を取り戻してほしい」という思いに頭を支配されながらも、どうにか日々の業務をこなそうとしていた。

未来がどうなるのかはわからなくても、試合があることだけは確か。トレーニングをしないわけにはいかない。翌日3日は非公開練習で、取材に現れた在京テレビ局のクルーにはお帰りいただいた。トレーニングが終わったらすぐに選手たちは信大附属病院に駆けつける。近くのサポートショップに協力してもらい、選手はそこで待機。決まった時間にチームに対する説明もあり、それを聞いて無事を祈った。

寝ているのか起きているのかわからないし、今の自分の現在地もわからない。極端に言えばそんな極限状態だったが、それは当事者だった全ての人たちに言えることだろう。8月4日はもともと組まれていた高校生とのトレーニングマッチ。それが終わった午後1時すぎ、加藤監督の携帯電話が鳴る。聞きたくなかった訃報が、もたらされた。

マツさん――。

遺体と対面した。
少しだけ、口角が上がっているような表情。
にわかには受け入れがたい、しかし残酷な現実を突きつけられた。

それでも時間は進むし、待ってはくれないし、ましてや戻ることはできない。翌日は松本平広域公園球技場でのトレーニング。その最中、マツさんの故郷・群馬に向かう霊柩車が、ご家族の意向でアルウィンと練習場を通ってくれた。練習を中断し、チーム全員でマツさんを見送る。わずか8カ月前に「もっとサッカーしたいっす」と言っていた人が、できなくなってしまった。

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山雅に在籍したのは、わずか半年。それでも、絶大なインパクトがあった。加入が決まってから主務として電話では連絡は取っており、初めて会ったのは引っ越しの手伝い。あっけらかんと「そのへんにある物、使わないから持っていっていいよ」というのだが、「そのへんにある物」は「そのへんにはない物」ばかりで戸惑ってしまう。恐れ多くも腕時計、Tシャツ、ヘッドホンなどを譲ってもらったが、本人はあげた記憶すらなかったと思う。それらの品々は今でも大事に保管してあるし、Tシャツに至っては今も現役で着ている。

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性格はさまざまなメディアで伝えられている通り、喜怒哀楽がハッキリしていて豪放磊落。それでいて嫌味はなく、気さくだった。横浜FMでサポーターにこよなく愛されたのも当然だろうと思う。サッカーももちろん、抜群にうまかった。インサイドキック一つ取っても精度は頭ひとつ抜けていたし、危ないところを察知してピンチを潰してくれる。当時JFLの山雅。亡くなる直前まで、「なんでこんな人がここにいるんだろう」と不思議に思ったものだった。

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永訣から3日後、試合が待っていた。相手はSAGAWA SHIGA FC。試合は18時30分キックオフ、のはずだった。しかし開始前になって雷雨に見舞われ、開始を延期。このときの空は、異様だった。夕暮れの赤と夜の青が入り混じる。ピッチを照らす白い照明と、照らされる芝生の緑。まるで世界にはトリコロールと緑しか存在しないかのような。後にも先にも、山雅の試合でアルウィンが同じような状況になったことはない。超常的な何かに結び付けるのが妥当かはわからないが、そう納得できるほどの空間だった。

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余談ではあるが、この日のマッチコミッショナーは「この試合は何がなんでも成立させる、どんな時間になってもやる」と発言していたのだという。荒天が収まり、試合は1時間遅れでキックオフ。チームの誰もが「マツさんのために」という思いを持ってピッチに立ったはずだ。それでも、あまりにも重く悲しい出来事が起こってしまった1週間。練習に身が入っていたかというと――残念ながらそうは言い切れない。ましてや相手は首位。簡単なゲームになるはずもなかった。

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キックオフ直後から、ロングボールの処理でGKとDFが交錯する。普段なら難なく処理できるはず。そして開始9分、自陣右からのクロスにアウトサイドで合わされて早々に失点を喫した。その後は阿部琢久哉がミドルを放つなどゴールを狙ったが、相手GKが再三の好セーブ。憎らしいほど冷静なこの守護神はご存知の通り、後年に山雅の屋台骨となる村山智彦だ。

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選手たちの気迫も、残念ながら空回った。序盤から警告を立て続けに受けてしまい、43分にはキャプテン須藤が2枚目のイエローで退場となった。本人いわく、サッカー人生で退場したのはたった3回。数的不利となって後半を迎えた。

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それでも意地を見せる。58分。李鍾民のショートコーナーから北村隆二がクロス。これに合わせたのは飯田真輝だった。マークについていた相手DFの上から叩きつけた豪快なヘッドでネットを揺らし、同点に追いついてみせた。その後も山雅のペース。1人少ない数的不利を感じさせず、船山貴之が振り向きざまにシュートを放つ。

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しかし64分、自陣右のFKから鮮やかなシュートを決められ、再びビハインドを背負う。79分には多々良敦斗が2枚目の警告を受けて退場となり、2人少ない9人でのプレーを余儀なくされた。こうなるとさすがに、気持ちだけでどうにかするのは至難の業。そのまま試合終了のホイッスルが鳴り、選手たちは次々とピッチに崩れ落ちた。

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横浜FM時代から親交の深かった木島良輔。マツさんがいたボランチで奮闘した弦巻健人。ゴールを守った石川扶。誰もが悲しみと、無念さと、無力感に打ちひしがれていた。普段はクールで喜怒哀楽を表に出さない北村までもが、涙に暮れていた。マツさんが生きられなかった日を生きて、それなのに、望む結果は得られなかった。現実はあまりにも残酷で、無情だった。

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「今週は人生の中で一番つらいことがあった1週間だったと思う。その中で選手たちは全力で最後まで走ってくれた。私たちのクラブの目標はJリーグ昇格。今シーズン残りの試合、引き続き全力でその目標に向かって戦う。残念ながらマツはもうピッチに立てないけれども、僕らの心の中に、僕らが生きている間、死ぬまで生き続ける。彼の無念を晴らすべく、J昇格、その先にはJ1という戦いが待っている。私たちは止まることなく前進していきたい」

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試合後の加藤監督はそうあいさつした。アルウィンにはマツさんのチャントに包まれる。「松田直樹 松本の松田直樹 俺たちと この街と どこまでも」――。その歌詞の通り、山雅の主軸として、この街に溶け込んで、Jリーグの舞台に立つはずだった。J参入を誰もが口にしていた時期、唯一「J2で優勝してJ1に行く」と最高峰の舞台を見据えていた。「松本山雅を全国区にしたい」という言葉も口にしていた。

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マツさんと一緒に戦う。Jリーグに昇格する。あまりにも悲しいその動機が選手たちを動かした。その年、亡くなってからもウェブサイトの選手一覧や印刷物、遠征先に提出するチームリストなどからも削除することはなかった。いないけど、いるのだから。そして同年12月、宮崎の地で4位以内を確定させた。

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あの夏から、早いもので10年が経った。

当事者のクラブとして、何を発信するべきなのか。当時、クラブには「マツさんを返して」という声も多く寄せられた。「山雅が死なせた」と思う方もいた。私たちはそれを否定することはできない。これをきっかけにAEDを普及させましょう、と声高に主張できる立場でもない。ただ、こんな出来事は二度と起きてほしくない。どう発信すべきなのか、今でも自問自答は続いている。

マツさん。

もっとプレーを見ていたかったです。
勝って笑って、負けて怒っている姿も。
言った通り、J1も経験しました。

でも、まだマリノスには勝てていません。
全国区になるのも、道の途中です。
まだまだやり残したことはあります。

山雅で一緒にプレーした選手はいません。
それでも、私たちは忘れません。
そして、思いを繋いでいきます。

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構成/大枝 令

丸山 浩平

監修:丸山 浩平

1979年、豊科町(現安曇野市)出身。松本県ケ丘高時代はサッカーに打ち込み、杏林大卒業後の2006年からNPO法人アルウィンスポーツプロジェクトの事務局員として松本山雅FCと関わるようになった。主務、広報などを歴任して現在に至る。サッカーと並んで音楽をこよなく愛しており、10年以上前からRADWIMPSを愛聴。