【信州ダービー特別企画】小澤修一取締役(前編)

「最初はだまされたと思った」――。小澤修一は苦笑まじりに振り返る。2005年に選手として加入し、北信越1部とJFLへの昇格に貢献。2010年に現役を退いてクラブスタッフに転じ、今年から取締役に就任した。山雅を愛し、山雅に愛された男が、クラブとともに歩んだ17年を振り返る。

熱心な勧誘受けて加入するも
「だまされたと思った」

――山雅に選手として加入したのは2005年、北信越2部で戦っていた時代でした。加入に至った経緯を教えてください。

山雅に来る前は静岡FC(現藤枝MYFC)でプレーしていて、チームメイトに兼子一樹という選手がいました。彼は長野市出身の選手なんですけど、私が環境を変えたいと思ってチームを探しているときに「松本にJリーグを目指すクラブがあって、興味があるから一緒にセレクションを受けないか」と誘ってくれたんです。そのときは違うチームに練習生として行くことも決まっていましたけど、トレーニングの一環としてゲームもできるのでついていきました。結果は私だけが合格をもらって、彼は長野エルザ(現AC長野パルセイロ)に入って、のちに10番を付けていましたね。

――練習生として参加するチームもあった中で、なぜ最終的に山雅を選んだのでしょうか?

まずは熱心にずっと誘っていただいたのが一つです。当時の辛島(啓珠)監督だったり八木さん(八木誠・現取締役)から連日のように電話をいただいて、「もう一つのチームの状況はどうだ」とかいろいろとコンタクトを受けていました。他のチームに10日間くらい練習参加していて、「来てほしい」という話もいただきましたけど、当時は経済的にプロとして給与を出すのは難しいとのことでした。会社で働きながらプレーするにしても、距離的に遠いこともあって一度行ったらなかなか戻ってこられないと思っていましたし、砂浜で練習することもあって環境も良いとは言えなかったです。正直前にいたチームとそんなに環境が変わらない気がしていました。

そのときに山雅はずっと声をかけてくれました。実際にアルウィンを見て、あのスタジアムの中でプレーすることを想像していましたし、練習環境も整っているという話でした。練習着とスパイクが支給されて、芝生のグラウンドで練習できるとのことで、そっちのほうが絶対に良いと思ってカテゴリーを下げることにはなりますが移籍することにしました。

――実際に行ってみて、環境の充実度はいかがでしたか?

正直全部ウソでしたし、最初は「だまされた」と思いました(笑)。でも3年後くらいには言っていたことが少しずつ実現されてきていたので、当時のクラブの方々の努力はすごかったと思います。

――練習場は学校のグラウンドがメインだったのではないでしょうか?

そうですね。高綱中がメインで、たまに旭町中を使ったり、体育館でやったり。2005年に入って最初の2年間は夜に練習していました。仕事も斡旋してくれると言っていて、履歴書を出して、地元の歴史ある企業に就職する予定だったんです。ホームページを見て家族とも相談して、「こんなにいい会社に入れるんだったらいいじゃん」「社会経験もできるし行ってみなよ」という後押しもありました。でも実際に行ってみたら破談になっていて、全然話が違うじゃないか!…と思いましたね(笑)。

転換期を迎えたチーム
選手間の温度差に苦悩

――その後はどう過ごされていたのですか?

松本に来たのが2月で、5月までは仕事も何もなく無給で生活していました。ただそこで八木さんがさすがに悪いと思ったのか、米俵とか弁当を持ってきてくれたりしていて。そのときは独り身でもあったので、それで飢えをしのいでなんとかなっていました。

そこから5月に仕事が決まったと言われて始めたのが、倉庫会社でのアルバイトでした。朝は8時半くらいに倉庫に行って、冷蔵庫とか洗濯機とか電化製品の荷卸しをして、一日中ピックアップとかをやりながら5時半くらいに仕事が終わって。そのまま6時半くらいから練習していて、とてもじゃないけどサッカーに集中できる環境ではなかったです。1年目はそう思いながらプレーしていて、最初は途中からでも移籍したいと思って違うチームを探したりもしていました。

でも試合を重ねるごとに応援してくれる人たちがどんどん増えていって、最終戦では1,000人近くが集まったのかな。スタジアムのメインスタンドからグリーンシャワーという緑のテープを投げてもらって、それをピッチから見ているときに「このクラブには自分のサッカー人生を賭ける価値があるのかもしれない」と初めて思いました。それまでは疑心暗鬼というか、「本当にここにいていいのかな?」とずっと思っていましたね。

――サッカー選手としてステップアップできているという実感も持てていなかったですか?

そうですね。当時は26歳ということもあって、なるべく早く上のカテゴリでサッカーをやりたいと思っていました。

――チームは北信越2部を優勝して、1部昇格を決めました。

最初のほうはなかなか勝てなかったですし、チームの雰囲気も決して良好とは言いがたいものがありました。もともといた選手たちが悪いという話ではないですけど、それまでは地元の方たちを中心にチームが構成されていたところに上を目指す選手たちが十何人と入ってきて、サッカーに対する温度感の違いがすごくあったと思います。それもあって最初はチームとして融合するのに苦労していました。

――その温度感はシーズンを通してうまくすり合わせていったのですか?

そこは辛島監督がすごく苦労したと思います。練習中に監督と選手がケンカしたこともあって、昔の熱血ドラマみたいな感じでした(笑)。そういうのを繰り返して、最後は「みんなで頑張ろう」という空気になりました。あとは途中から矢畑(智裕)とか三本菅(崇)、神田文之(現社長)といったJを経験した選手たちが入ってきて、クラブとして上を目指す意識が統一されていったと思います。その温度感に馴染んだ選手たちは一生懸命頑張って、何年間か一緒にプレーしましたし、別の道を選んでその年限りで去っていった選手もいます。でも去っていった選手たちに対しては、正直サッカーができる環境を奪ってしまった感じがしていて、いまだに申し訳なさが残っています。だからこそ、山雅は常に所属してくれた選手たちが誇れるクラブで在り続けたいと強く思っています。

――地元の社会人クラブでプレーしていた選手たちが、いきなり高い水準に合わせなければいけなくなったと。

そこはすごく申し訳なかったです。応援してくれる人たちもたくさん増えていきましたし、クラブとして上を目指してサッカーをしていたので、そこはもう割り切るしかなかったというか。でも今はそこで去ってしまった選手たちとサッカーをする機会もあって、すごくうれしいです。一緒にプレーすることであの頃の申し訳なさが和らいできている感覚もあります。

「このクラブで頑張ってみよう」
徐々に環境も整い ダービーにも熱

――2005年シーズンを終えて、クラブに残ることはすんなりと決まりましたか?

先ほど言ったように「このクラブで頑張ってみよう」とは思いましたけど、そうはいってもこの環境でサッカーをやるのは無理だと思って、正直に話しました。お金がたくさん欲しいというよりはサッカーに集中できる環境がほしかったので、お金が少なくてもそれで生活をやりくりするので、プロ契約にしてほしいと。それはかなわなかったですけど、有賀さん(有賀修二・当時三洋エプソンイメージングデバイス社長)が4人くらい選手を受け入れてくれるという話をしていて。最初は外から入る選手がそこに入る予定でしたけど、チームとして私を残したいという思いを話してくれて、エプソンに就職することが決まりました。

――エプソンではどんな仕事に従事していましたか?

人事総務部で仕事をしていました。当時の会社は「サッカーと両立させる」という感覚はあまりなくて、正社員の一人として受け入れてくれていました。新人研修も受けましたし、周りの方と同じような役割がありました。誰かが出張に行ったらそれをシステムに入力して精算するんですけど、その行程がどうだったかとかをチェックしないといけなくて。部長さんとメールをやりとりすることもあったりして、そこでメールの打ち方とかもすごく直していただきました。社会人としてすごく勉強になってありがたかったです。

そこで働いていた経験は今も生きていると思いますし、職場で出会った方々はいまだに試合を見にきてくれます。最初はサッカーに全く興味がなかったんですけど、「フロアで一緒に働いている人が試合をしているから、みんなで見に行ってみよう」という話をしてもらって。2006年にはJAPAN(サッカーカレッジ)と大事な試合があって、アウェイにもかかわらず職場旅行としてバスを借りて、みんなで見に来てくれたんです。そうやってエプソンの中で山雅を応援しようという気運がじわじわと出てきて、それがいろいろな人たちに派生して広がっていったという感覚はあります。当時のスタジアムのスタンドには、エプソンの方がたくさんいましたよ(笑)。

――それは小澤さんの人柄があったからこそ応援しようとなったのでは?

私としては適当にやっていると思われるのはすごく嫌でしたし、自分の勉強にもなると思っていたので、一生懸命やっていたつもりです。パソコンの使い方とかエクセルの関数もそこでほとんど習得できて、ありがたい機会でした。出張の行程のチェックも「こっちのほうが安くいけたんじゃないか」とか部長にメールするわけです。当時は「どの立場からものを申しているんだろう」と思いながらやっていました(笑)。

――サッカーの面でも、2年目の2006年は環境が改善されていきましたか?

正直最初はそこまで変わらなかったですね。練習が夜にあることもあって、使える環境が限られていました。2006年から2007年にかけて練習が午前になって、大きな変化がありました。2007年はほとんど芝生で練習させてもらえるようになりましたし、ようやく当初言われていたような環境が整ったなと。スパイクはもらえなかったですけど(笑)。Jリーグを経験した選手もたくさん入ってきて、プロ契約の選手も増えて、よりプロサッカークラブに近づいていったと思います。

――2006年は北信越1部で、長野エルザとの信州ダービーもありました。その試合はどんな位置付けでしたか?

私は外から入ってきた人間なので、当時は長野市と松本市の関係性がわかっていませんでした。2005年に入ったときは、長野エルザが1部の上位にいて、同じ県内に上のカテゴリーで昇格争いをしているチームがあるんだと思っていたくらいです。その年は全社(全国社会人長野県大会)の決勝で対戦して、1-5と大差で負けたんですよ。結構な実力差があると感じましたし、まずはそこに追いつき追い越さないと、JFLやJリーグへの道は見えてこないと思っていました。

――それまではライバルというよりも、同じ県内の格上という認識でしたか?

そうですね。最初はお客さんがそんなに入っているわけではなかったですし、ダービーとして盛り上がっている感じでもなかったです。あくまで上のクラブとの対戦という見方をしていましたけど、2006年は開幕戦でパルセイロと対戦して、アウェイで0-2と勝ちました。あのときはたしか、アシストすることが出来たのでよく覚えているのですが、山雅は2005年の最初と最後でチーム編成がだいぶ変わりましたし、1年間でグッと力がついたと感じた開幕戦でした。

(後編に続く)