【試合展望】第31節 長野戦 ※無料配信

街のために戦う――。

本来、全ての試合がそうであるかもしれない。だが、次節はそれが大きくクローズアップされる。信州ダービーだ。今季は公式戦15年ぶりの黒星を含めて2戦2敗。長らく死守してきた信州フットボール界の秩序に、あってはならない地殻変動が起きようとしている。特にアウェイの長野Uスタジアムで喫した黒星は、クラブの近代史においても類を見ない屈辱的な完敗だった。

5月13日。力の限り飛び跳ね、声を振り絞った人々。会場には行けずとも、あらん限りの念を送った人々。彼らこそ、チームが背負う「松本」の正体に他ならない。なぜ松本を、松本山雅を愛するのか。なぜ信州ダービーで目の色を変えるのか。なぜ財布を痛めながら、時間と労力を費やして魂を緑に染めるのか。ピッチで輝く選手と同じように、スタジアムの主役である彼らの声を聞く。


故郷に生まれた もう一つの「実家」

CASE1 : 東京都 30代女性

「いい時代は終わったんだ」
「長野に取って代わられるんだ」

スタジアムで敗戦を見届けて、そんな思いが頭をよぎった。

塩尻市出身。地元は好きだし東京への憧れはなかったが、夫の転勤に伴って上京。機を見て戻ってきたかったけれども、子どもが転校を嫌がった。今も都内在住。関東地方のアウェイには頻繁に足を運ぶし、月に一度はホームゲームに合わせて帰郷するという。

自由闊達に過ごした松本での青春時代。同じコミュニティ内で、長野はやはり張り合う対象だった。ハイビスカス柄が特徴的なブランド・アルバローザは松本で取り扱っているけれども、長野はどうか?ブエナビスタにミュートスがあるし、当時のPUMPKIN HEADにはアーティストも多く来る。でも長野は?どうなの?

「そういう小さなプライドみたいなものが、山雅うんぬんは関係なく絶対にあった。県庁所在地じゃないっていう劣等感があったのかもしれないし、DNAって怖い」

仕事柄、表参道や代官山などを頻繁に歩く。そうして、気付いたことがある。「路地を一本入ると、ものすごくこだわりの詰まったスタイリッシュなショップがたくさんある。でもそれって松本も同じで、すごく感度が高い街だったんだとわかった。むしろ見劣りしないどころか、松本の方が尖ってるって言ってもいいくらい」。それは自分だけの感覚ではなく、取引先の経営者などと話をしてもシンクロするのだという。「松本、代官山、あとアメリカのポートランド。私の中では近いものがあると思う」

2012年。「キングカズを見たい」とせがむ家族を連れて、アルウィンに初めて足を踏み入れた。自身はもともと、日本代表を見る程度。山雅の存在は知っていたけれど、むしろコミュニティの外からはうっとうしく映っていたという。「オクトーバーフェストにワーッとなだれ込んで来たりして、『うるさいなあ』くらいに思っていた」。けれど試合を見て迷わず推しを見つけ、そこから右肩上がりの時代に身を浸した。

アルウィンは「世界で一番好きな場所」。もともと好きな地元だし、仕事の利害関係もなく、気心の知れた家族と酒を呑んで、腹の底から声を出す。ただ単に地元のサッカークラブだから――というだけの理由ではなかった。実業家の堀江貴文さんなど、サッカー界内外からそのムーブメントが評価されていた当時。胸を張って誇れる存在でもあった。だからこそ、現状が少し寂しい。下降線をたどる成績も、それ以外も。

基本的なスタンスは「推しは一方通行でいい。実家に帰って地元の友達に会うような感覚」。アグレッシブに戦う若手の姿を見て、大人しすぎる部下へのもやもやが晴れる時もある。「そうだよ、それでいいんだよ!」と膝を打つ。そうして応援に見返りは求めないつもりでも、積もり積もれば思うところは芽生える。「本当にやる気ある?」「なんのために東京から来たんだろう…?」。自然と足が遠のく時期もあったという。

今回の信州ダービー。「松本のために戦う」というチームの発信を耳にして、「最初からそのつもりで戦ってくれればよかったのに」と、苦笑交じりに口をとがらせる。地元愛は今も変わらない。街に出ればセンスが尖っているし、少し離れた実家の周辺には田園風景が広がる。夜の帳がおりても、見慣れた稜線の形を頼りに歩けば迷わない。そこに生まれたもう一つの「実家」が、松本山雅なのだ。


山雅がくれた地元愛 街を背負う意味

CASE2 : 松本市 50代男性

「お勘定、いくら?」

試合終了のホイッスルを聞くまでもなく、敗戦を覚悟していた。画面越しでさえも最後まで見届けられなかったのは、涙がこぼれてしまいそうだったから。「諦めないからな!」と捨てゼリフを残したのは、精いっぱいの強がりだっただろうか。サポーター仲間とともに観戦していた店を出て、夜の街を一人とぼとぼ歩く。松本駅の近くにある馴染みの店で、生ビールを1杯だけ頼んで一気に飲み干した。とても平常心ではいられなかった。

「怒りの方が強かったのかもしれない。とにかく一番負けたくない相手に負けたのを認めざるを得ない。しかも例えばPKの1点を守り切られて負けたならまだ強がる余地もあるんだけど、全てに圧倒されていた。サポーターの声はすごく出ていたしみんな頑張っていたのに、そこの噛み合わなさも感じた」。1週間前の天皇杯県予選で15年ぶりに信州ダービーの黒星がついた。今回こそはネジを巻き直して勝つに違いない――と信じていたからこそ、喪失感は大きかった。

「38試合のうちの1試合に過ぎない」と語る口で「ダービーの重要性は理解している」と言われても、首を傾げるしかなかった。本当に?本当に??理解しているの???こんなに勝ちたいのに。

もうすぐ還暦を迎える。2006年、当時北信越リーグの山雅に出合って、人生が一変した。それまでの日曜日は、特に何もない日常が穏やかに過ぎていくだけ。「アッコにおまかせ!」が始まる時間まで布団で過ごし、すっかり冷めた食事を口に運んで、ふらりとパチンコ屋に足が向く。「前向きなタイプじゃなかったし、特に何の楽しみも見つけられない人間だった」と振り返る。

それが、アルウィンで変わった。「なんでこんなにムキになって応援しているんだろう?って、自分でびっくりした。会社でつまらない顔をして生きてきた自分とは違って、試合に向けた日曜日のために生きてることが明確になっていった」。まだゴール裏の人数も多くはなかった時代。声を張り上げ、飛び跳ねる。トランス状態のようになってくる。「声を出して、出して、出して、出し切っているから、酸素が回らなくなって頭がジンジンしてくる感覚」。試合が終われば、周囲の仲間もともにバタバタと座り込む。

「生きてる」

そんな実感を得られる、かけがえのない場所だった。

山雅との邂逅が、生まれ育った松本への愛着を芽生えさせた。もともと郷土愛は薄く、高校卒業後の19歳で一度は故郷に背を向けた。こぢんまりとしたコミュニティの中で「地元に残ったヤツらとつるんで遊ぶのはいいけど、『ずっとコイツらと一緒に歳を取って、ただただこのままオッサンになっていくのか?』と思ったらつまらなく感じた」と明かす。単身で上京し、東京都西部のパチンコ屋で住み込み勤務。その後は帰郷したが、強く地元を意識する機会は限られた。

だが、緑のユニフォームを着るようになってからはガラリと変わった。「MATSUMOTO CITY」とプリントされたTシャツに喜んで身を包み、他人から悪く言われたら反発するようにもなった。北信越リーグのアウェイにバスツアーで遠征。帰り道の長野道・明科トンネルを出て街の明かりが見えると、たまらない高揚感に襲われた。「俺たち、勝って帰ってきたぞ!」。あたかも街の代表のような共感覚が、バスの中を包んでいたという。

そしてバスを降りると、湿気のない澄んだ空気。とりわけ、リーグ戦が佳境を迎える秋はいい。肌にまとわりつかず、さらりと疲れた体をなでてくれる。その空気が、どうしようもなく松本だった。山雅が、平坦な日常に彩りを加えた。そして山雅が、大切なことを教えてくれた。生まれ育ったこの街を、好きになっていいのだと。


口を衝いて出た 初めてのブーイング

CASE3 : 松本市 30代女性

緑のポンチョを雨に濡らして、帰りの車に向かっていた。

か細い声で、念仏のようにチャントを口ずさむ。何か言葉を発したら、その瞬間に涙腺が決壊してしまいそうだった。「どんな時でも 俺たちはここにいる」「立ち上がれ 俺らが松本」――。それはおそらく、自らの足を前に運ぶためのまじないだったのかもしれない。その脇を、鮮やかなオレンジのポンチョが足取り軽やかに追い越していく。夫が寄り添って歩いてくれた。

チケット争奪戦に身を投じ、ゴール裏の席を確保した。ただ、チームは開幕6試合負けなしから一転して黒星続き。1週間前の天皇杯県予選も、サンプロ アルウィンでオレンジ色の躍動を目の当たりにさせられていた。信じたい、しかし大丈夫か。「サポが諦めたら終わりだよね?弱音なんか吐こうものなら崩れちゃうよね?」。そんな一抹の危うさを周囲から感じ取りながら、疑念を振り払うように声を張り上げた。

それなのに、負けた。
完膚なきまでに、負けた。

「なんでこんなに負けちゃいけない試合で、どうしてこんなに酷い負け方をするの…」。悲しみよりも怒りが込み上げ、自分でも驚くような行動に出た。

ブーイング。

2017年から山雅を応援するようになって、初めての経験。ごく自然と、内なる衝動がうなり声に変わった。されてうれしいはずがないことなんて、百も承知。「片田舎に来てくれて、田んぼの中で泥を投げ合っているようなダービーで、勝手に重たいものを背負わされているだけなのに」。緑のユニフォームを着て戦ってくれるだけでよかったし、ましてや呪詛など届けたくもなかった。けれど、それ以前に何が届いていたか。理性をあっけなく吹き飛ばすほど、情けなかった。

この3年間、どんな思いをしてきたか。負けて、落ちて、上がれなかった。さんざんな記憶が先行する。長野市にそもそもマイナス感情はなかったし、友人もいる。「生まれた時にはもう筑摩県なんてなかった。確かに県庁所在地が松本なら便利かもしれないけど、それくらい」。なのにこの感情は、なんだろうか。

「いいことがなくても、信州ダービーで負けていないのが最後の砦だったのかもしれない。ここでこんなに負けちゃったら、私たちって何なの?周りから馬鹿にされて、笑われて、それでも私たち応援してるけど、いったい何を誇ればいいんですか」。家に帰ってシャワーを浴びているとき涙があふれ、魂が抜けた。

塩尻市で生まれ育った。高校時代。活発な男子、とりわけサッカー部と野球部は安寧を脅かす「敵」でしかなかった。だが社会人になって、周囲の友人が期せずしてサポーターばかりの環境に。飲み会で話題についていけず「私も行こうかな…」と呟いた瞬間、全員の目の色が変わったのがはじまり。装備一式を借りてアルウィンを訪れた。2試合目のアウェイ金沢戦、見やすい席を取ったつもりがゴール裏のど真ん中。試合は後半の5分間で3得点。ハイタッチして、抱き合って、SEE OFFを歌って、その熱狂に魅入られた。

入り込みすぎると、疲れてしまう。だが熱の入れようをセルフコントロールしながら、応援は辞めないつもりでいる。「やめようと思えばぶっちゃけ簡単。もう行かずに、お金を落とすのもやめればいいだけだから。一方的に押し付けているのは傲慢だってわかっているけど」。生まれ育ったこの地への愛着は強い。祖父が好んだ実家の座敷も、墓から望むパノラマも、隣組の付き合いも、三九郎も。それと同じくらい、緑色の愛着が育っているのかもしれない。


「松本のために戦う」

霜田監督は決意を口にした。それは「松本」をつくる最小単位である、サポーター一人一人のために――と言い換えることもできる。10,000人いれば10,000通りの物語がある。彼らの顔は果たして見えていたか、その息遣いに耳を澄ませたことはあるか。松本を松本たらしめてきた気質、習俗、生活、そして一方的な重たい愛情。もちろん、臥雲市長が説いた歴史的背景という「大きな物語」もそうだ。それら全てをぶつけて、ねじ伏せて、勝つ。次節はそうした戦いでありたい。

編集長 大枝 令 (フリーライター)

1978年、東京都出身。早大卒後の2005年に長野日報社に入社し、08年からスポーツ専属担当。松本山雅FCの取材を09年から継続的に行ってきたほか、並行して県内アマチュアスポーツも幅広くカバーしてきた。15年6月に退職してフリーランスのスポーツライターに。以降は中信地方に拠点を置き、松本山雅FCを中心に取材活動を続けている。